年の瀬になると、毎年手に取るのが、稀代の詩人であり、戯曲家であり、何より競馬を心底愛した寺山修司の本である。
中でもエッセイは何度読んでも飽きる事はない。
『馬敗れて草原あり 』
『競馬無宿 』
『競馬への望郷旅路の果て 』
『山河ありき 』
『競馬放浪記 』
『さらば競馬よ』
ほとんどがリアルに知らない馬名や騎手ではあるが、それは大した問題ではなかろう。
『馬敗れて草原あり』の一節にこんな下りがある。
「ファンは、自分の客観的な推理などという迷信にとらわれて、合理的な配当金増殖だけをねらっているのではない。
まさに、自分の前夜観てしまった幻想のレースと、現実に展開される本物のレースのあいだを埋めていくデテールを楽しむのである。
したがって、幻想のレースと、現実のレースがぴったり合致してしまうと、そこには意外性とかロマネスクがなくなってしまう。
心では、自分の幻想を、現実が裏切ってくれることをのぞみながら、しかし賭博での勝利者になることをねがうという二律背反が、いつまでもついてまわるというわけなのである」
二律背反とは、互いに矛盾している二つの命題が、互いに同じだけの合理性や整合性があること。
「Aが正しければBは偽り」
「Bが正しければAは偽り」
このような事例でAとBどちらにも同じだけの合理性や整合性があることを言うらしい。
競馬を少し齧って、「こんなに損するなら、美味しい物でも食べた方がまし」
極めて正常な神経の持ち主である。
厄介なのは寺山修司が云うところの、二律背反に絡め取られてしまった人達だ。
「デムーロが真っ直ぐ走ってたら」
「4角で不利がなければ」
「スタートして行ききってたら」etc。
何も、馬券愛好家だけではない、馬主の方達もそんな思いに囚われる事があるのではないかと推察する事は、日頃の言動から容易である。
自分の思う通りにレースが運ばれる事を願いながら、何処かでそんなに上手く行く訳がないと、悪い結果を想像して戦慄を覚える時の何とも云えないあの気分たら(^_^*)
「マスターさん、一年間お疲れ様でした」と熊本天草出身◯原さん。
「あ〜こったら疲れた年は久々よ。全く持って予想通りにならねんだもん。競馬の神様は俺に恨みでもあんのかね?去年の儲けを吐き出しただけじゃねえ。熨斗つけて返しちまってんだから、何をか云わんやだ」
「それでも毎週買い続けたんですから立派なもんですよ」と競馬友達のK君。
「まあな、その分普段使うマニーはタバコ銭とDVDを借りるぐれえで、そこいらの中坊の方がよっぽど遣ってんじゃねえの」と変な自慢のマスター。
二律背反の世界に囚われの身なれど、来年も足掻いてみるようです。
皆さま、今年も一年間『北新地競馬交友録』をご愛顧いただきありがとうございました。
心より御礼申し上げます。
来るべき2018年も何卒宜しくお願い申し上げます。